磐梯町赤枝彼岸獅子 - ビジネスブログ

会津・南向き棚田米 佐藤農園
2016年09月30日 [Default]

磐梯町赤枝彼岸獅子

赤枝村は、古くから「獅子踊り」を代々伝承し続けている事・その踊が群を抜き勇壮である事・1000年以上前からのものであるとの伝承の下、大きな誇りを持ち続け、今日に至っています。
・奈良時代末期から平安時代初期、坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷を征圧して行きました.
「仏教による領地の経営」 を進めていた朝廷は、奈良興福寺(法相宗)の徳一を主とした占領地の経営部隊を、常陸の国・岩城の  国・会津・山形等の担当として派遣したものと考えられます。担当エリアが決められていた様です。
 徳一自身もいろいろな理由から、これを望んだと思います。
・会津では、磐梯町本寺に、坂上田村麻呂が、徳一をはじめとした「国を治めるための高度な知識を有した人材から成る専門部隊」 を送 り込み、「清水寺」を築いています。これ以降この寺院が、平安時代末期まで会津を支配して行く事になります。
 更に、会津のいくつかの主要な寺院も坂上田村麻呂の下、徳一が築いています。
・坂上田村麻呂は京都清水寺を建立する以前、戦の中、信州「清水寺」に深く関わり、各地に清水寺を建立するようになりました。(後 で紹介したい)
・徳一が会津を去って行く時、自身の歌に、「清水の寺」と詠んでいる事から、その頃はまだ創立当時のままの寺名です。
 その後寺名を、中国法相宗慧沼『能顕中辺慧日論』の継承を明らかにするため、「慧日寺」に変えたものと思われます。
・しかし、その後仏教界は「最澄と桓武天皇」の時代から、「空海と嵯峨天皇(在位809〜823)」の時代となりました。これは、両人とも 生まれついての詩才があり、書の達人でもあり(橘逸勢を加えて当時の三筆)、大変親密な信頼関係となり、以来空海は、嵯峨天皇 の側近としてなくてはならない人となっていた様です。
・ また空海が真言密教はすみやかに定着し広まっていった。
*この時代は、神道 と仏教が混淆し一つの信仰体系として再構成されつつあった時代で、神々の宿る磐梯山を修行の場とし、神仏に祈り  民衆を教化し、数々の問題を克服し安定をはかろうとしていた時代でありました。
*慧日寺には、「獅子縫」と書かれた文書があります。
 「獅子」は悪魔を祓って場を清めたり、五穀豊穣等の諸々の願い事をかなえたり、諸々の供養をしたりする、悪霊や数々の困難を追い払 い諸々の願いをかなえてくれるくれるものとされ崇められていました。
・当時から慧日寺に、確かに獅子が存在していた事、それがしっかりと機能していただろう事が、此れにより解かります。
 ・飛鳥時代中国から伝来した「伎楽」の影響も受けたでしょうが、これとは異なる日本古来のものです。

*この事が、「赤枝獅子踊りの伝承」として伝えられているのです。

 附
*昔は赤枝を閼伽井田と書いていました。
・閼伽とは神仏に供える清水等々を意味します。閼伽を汲むための井戸を「閼伽井」と言います。
a田の中の閼伽井とは→江戸時代に外輪堂や念仏壇の跡地を新田開発しましたが、そこの清水が今も湧き出ています。ここなのか?
b村の中に、御清水様と呼ばれている祠があり、古くから清水が湧き出ています。ここなのか?
c赤枝の赤龍寺の庭に、赤龍の清水と呼ばれている所があり、今も水が出ています?
本当の閼伽井はどれなのでしょうか?→一つ一つにそれなりの伝承があり、今のところ判断出来ていません。
・どれもが「昔からの閼伽井」だと考えるのが、妥当なのでしょうか。

獅子踊り@獅子踊りA獅子踊りB
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